昔話
少し昔話をしましょう。
私のオーディオに関する経験値や理解度が今からするとまださほどでは無かった頃のことです。
その頃私が活動していた今は亡きphilewebコミュニティに私から見て2人のとんでもないオーディオの達人が降臨されました。
一名の方は音場再生の巨匠。もう一名の方はビンテージオーディオ再生の巨匠。
そのお二人の影響力はすさまじく、降臨後瞬く間にコミュニティ内でそれぞれの世界に感化される人々が続出し交流を願い出る人が後を絶ちませんでした。
しかし、ひとしきりコミュニティメンバーと交流され、コミュニティがその世界の凄さに盛り上がった後、そう長くない期間をもってお二人ともコミュニティからはフェードアウトされて行きました。
その後示し合わせた様にお二人はそれぞれの個人ブログに籠られ、その中でそれぞれの世界を発信される平常運転に戻っていかれました。その後も現在までお二人を例えばSNSの様な一線の平場でお見掛けすることはありません。
コミュニティメンバーの中ではその短い期間で運良く交流が叶い、それぞれの方の世界に付いて行った方は数名いらっしゃいますが、コミュニティという一線の平場では以降そのお二人の影響はそれっきりとなってしまいました。
その頃の私は「なぜあれほどまでの経験と技術と認知を持ち、(想像するに)素晴らしい音楽を再生されていながらあっさりと一線からは隠れてしまうのだろう。もっと広く持っておられるものを人々に還元されれば良いのに」と残念に思ったものでした。
届かない(分からない)領域を恐れる思考
その後私も年を取り、人生でも色々な経験をして、オーディオの経験値も積みあがってきました。
特に活動の場をSNSに移してからはコミュニティに在籍していた頃より更に幅広い人々を目にすることになりました。
そうしていくうちに、先の昔話のお二人の様な世の達人の方々がなぜ平場に出てこないのか自然と理解できるようになりました。
その理由は、突き詰めたオーディオに関して平場で発信することはリスクしかないからです。(近年オーディオだけでなく何事でもそういう傾向になっていると思いますが、特に後述する理由でオーディオはその中でも難しいことになっていると感じます)
そのリスクの根源は、自分が届かない(分からない)領域を恐れる思考を持つ人々からの敵視です
これは近年特に増加もしくは可視化されるようになった様に思いますが、優れたものを持つ人を見て素直に称賛する、もしくは自分もそうなりたいと努力する、といった方向性ではなく、優れたものを持つ人を認めてしまうと自己肯定感が保てないので、なんとかしてその価値を下げようとする方向性の人々が少なからず居らっしゃいます。
面白いのがそういった人々ほど「人それぞれ」とか「多様性」とか「好みの違い」とかを口にすることです。
本当に心から「人それぞれだ」と思っているのなら、誰が何を言おうが全く気にしないはずなのですが、そういう人ほど自分の届かない(分からない)領域のことで勝手にダメージを受けてなぜか敵意をむき出しにして否定したり、揶揄したりして下げたがります。
私が思う普通の建設的な思考方法では、自分の届かない(分からない)領域は届かなくても(分からなくても)いいやと完全に手放すか、興味があるから届く(分かる)ようになろうと自分が努力するか、その二択なのですが、どうもそれだけではなく、届かない(分からない)ものは下げればいいという三つ目の思考方法があるようで、根本的なベクトルの違いを感じてしまう所です。
更にオーディオの場合は上記とは違った点で深刻な問題があります。それはスポーツの様に記録の数値や勝敗でその人の実力が明確に示せるものではないという点です。そのため、実力(出している音)如何によらず、達人に対して簡単に一般層が声の大きさで対抗し、お気持ちでゴリ押して下げることが出来てしまいます。しかも、数で言えば一般層の方が圧倒的多数であり、突き詰めた領域は簡単に理解も出来ません。こうなると辿り着く結果は明らかでしょう。
そうやって届かない(分からない)領域を恐れる思考を持つ人々によって、達人は本質や実力とは関係のない所で叩かれ、表舞台から去り、自分の巣に隠れることになります。
私の想像でしかありませんが、先の昔話のお二人も散々こういった経験をされてきたのではないかと推測しています。だから気まぐれで表に出ることはあっても厄介事が起こらない内に隠れてしまう。これは自己防衛のためには至極全うな行動だと思います。
そして達人の経験や知識や技術、そして素晴らしい音楽世界はその価値をきちんと理解してくれる限られた身内の中だけで披露されることになり、一般層からは全く見えない所に行ってしまうのです。
私はこれをオーディオ界全体としての大きな損失だと思います。多くの人が達人からの影響で何かしら自分のオーディオにプラスになる可能性を、一部の人間の自己肯定感を保つために詰んでしまっているからです。
こんな流れって悲しいし空しいと思いませんか?
時代の流れ
更に近年のオーディオでは時代の流れによって悪い条件がそれに重なってきています。
それは機器の大幅な値上げです。
10年以上前ではお金持ちでなくともコツコツとステップアップしていって、いつかは手に入れるぞと思える現実的な夢の対象であったハイエンドオーディオ機器は、近年の大幅な値上げにより普通の人間では手の届かない大気圏外へと飛び去ってしまいました。それによってハイエンド機器はその立ち位置も現実的に目指すことが可能な夢から、良いものであっては都合が悪い酸っぱい葡萄へと変化してしまったように感じます。
これも前述した「届かない領域を恐れる」思考の一つです。どうやっても届かないのなら、そこに価値はないものとした方が自分の精神衛生上都合がよい。大して音が良くならない(と思いたい)のにそんな大金を掛けてばかじゃないの?と言うことでそれに届かない自分を慰め、自己肯定感を維持したいのでしょう。
そういった値上げや円安という外的要因から来るどうしようもない閉塞感、持って行きようがない気持ちも更に「届かない(分からない)領域を恐れる」思考を先鋭化させているのだと思います。
余談になりますが、この様な時代の流れは逆側に居る側にとってはむしろチャンスであり、その流れに乗るのは簡単です。いわば今が我が世の春、ボーナスステージだと言えるでしょう。
今ならば超高額化したハイエンドオーディオを対立軸として叩きながら煽り、自分の方法論やオススメのアイテムなら下剋上出来る、そちらの方が価値があると強い言葉で権威付けして持ち上げれば、普通に主張するよりも簡単に受け入れられ、価値も上がったように感じさせることが可能です。
なので、いま現在、この様なのやり口を実行する人間やメーカーには十分注意して冷静に判断した方が良いかと思います。まともな倫理観を持った人間やメーカーなら普通やらない方法論だからです。
時代の流れで行き着く先は?
ではそいういった「届かない(分からない)領域を恐れる」思考が蔓延し、その風潮を忌避して突き詰めた領域に入った人々が表舞台から去った世界はどうなるのでしょうか?
一旦は界隈に仮初の平穏と幸せが訪れるのかもしれません。ですが、突き詰めた領域についての情報がそのうち表から消え失せ、その界隈は一定以上の深みに入る方法論を喪失し、熱心に打ち込む人間はそのうちいなくなるでしょう。
また、簡単に叩ける便利な存在が消えてしまえば、今度は新たな叩ける標的を作るべく一般層の中でさらに層が分かれて争うことになるでしょう。一度気持ちよく叩ける標的を設定し、叩いたうえでそれを排除するという安易な成功体験を覚えてしまった界隈は、その後もその方法から抜け出す事はまず出来ません。
結果、行き着く先は気が向いた人が手軽に触って簡単に理解でき、気が逸れたら去っていく、そんなガジェット的な使い捨ての趣味になるのではないかと思います。
それが時代の流れだと言えばそうなのですが、これを読んでいただいている方は本当にこの趣味がそんな方向に進んで欲しいと思いますか?
もし思わないのであれば一つだけお願いしたいことがあります。
自分が届かない(分からない)領域を恐れないでください。下げないでください
届かない、わからないからといってあなたのやっていることの価値は全く目減りしません
自信をもって自分の道は違うのだとただスルーしてください
それだけをお願いしたいと思います
使いこなしの力
ここまでマイナス基調で話を進めてきてしまいましたが、最後に前向きな話をして締めたいと思います。
私がこの記事で声を大にして言いたいことは、「突き詰めた領域」とはシステムの機器の価格とは関係ないということです。突き詰めた領域=ハイエンドオーディオでそれ以外は価値なしという図式は実際に事実とは異なりますし、私の意図する所でもありません。突き詰めた領域入っている人のオーディオは、その部屋に入って再生される音楽を聞いた瞬間分かります。それこそペッシの様に言葉でなく心で理解できます。
オーディオは、現在のオーディオ界の価値観においては特にそうですが、音質が良いものはすべからく高価で、高価な機器でないと到達できない領域ももちろん存在する救いの無い残酷な趣味です。ですが、それとは別にオーディオシステムでどういう音楽をどう鳴らすのかといった観点では無限の可能性があります。そしてその可能性を開花させ、部屋に入った瞬間にゲストが分かるほど音楽の説得力を出すのは、支払ってきたお金の額ではなく、使いこなしや聞き耳や認知をひたすら磨いてきたという努力や熱意です。
もし「オーディオは所詮お金が全てなんだ」と思ってしまっている人が居るのなら、それは違いますと私は言いたいです。各自に与えられたお金をはじめとする諸々のリソースの中で、腐らず曲がらず前向きに取組み、出来ることをコツコツと継続し、知識や技術や経験や認知を積み上げて行けば、ある日「突き詰めた領域」に入っていることをふと認識する時が来ます。
大切なのは、曲がらずに前向きに取組む精神と、素直に先人に教えを乞い、食らいついてその知識と技術と認知を身につける熱意だと思います。私が良い音を出していらっしゃるなと感じる方々は皆この性質を持っていらっしゃいます。そしてそれらの性質を原動力として、知識や技術や認知を吸い上げて積み上げて行くのです。
そうして積み上げて得られるものは、お金を出せば得られる機器では得られない類のものです。それこそが「使いこなし」というものです。結局どんな高額な機器を使っていても、この使いこなしの力が無ければ音を「突き詰めた領域」までまとめ上げる事はできません。なので、この「使いこなしの力」こそが私を含めたお金を多くは持たない人間にとって肝要な所なのです。
しかし、ここまで述べて来た様に、その使いこなしの力は曲がらずに前向きに取り組まないと得られない類のものです。つまり、自分が届かない(分からない)領域を恐れる思考をしている様ではとても得られないのです。
これで見えてきたのではないでしょうか?
オーディオをやっていて良い音を出して気持ちよく自己肯定感を得たいのならば、自分が届かない(分からない)領域を恐れる思考をして、それが分かっている人間を叩いて排除している場合ではないのです。むしろその行為は自分を何も押し上げないどころか、結果として自分の音を向上させる機会、つまりは自己肯定感を得る機会を自ら奪ってしまいます。
逆に前向きに熱意をもって先人に食らいつき「使いこなしの力」を磨くことこそが良い音を出して自己肯定感を満足させる一番の近道であると言えるのです。
コメント
コメント一覧 (1件)
6月のOTOTENや、昨年のインターナショナルオーディオショーをみて、率直に感じていながら、うまく言語化できなかったことが、明快に表されています。心強く感じました。
昨今の値上がりについては、ハイエンドオーディオよりも、5万円、10万円から50万円~100万円までの価格帯の方が深刻に感じます。値上げをやむなく発表した同じ媒体で、記事広告が毎日のように打たれ、ガジェット的な価値観でオーディオ製品が扱われています。新品で出たばかりの商品が、希望小売価格のほぼ半値で中古品となり、新品に圧倒的な割高感が生まれてしまう状況です。
「突き詰めた領域」とはシステムの機器の価格とは関係ない。これはまったくその通りです。ただ現実に、オーディオショーで鳴っている音や、媒体で評論家が発信する言葉を拾ってみると、趣味としてオーディオを楽しみ、つきつめていくには、高価な機器が必要なのかと思いこまされる。あるいは中途半端にコスパ・タイパのよさで取り繕った商品がもてはやされる。その二極化になっていることを切に感じます。
媒体を作る側も読む側も、そのことに疑問を感じながら、背に腹は代えられない状況だと割り切っているのか。あるいはまったく違和感をもたずに媒体を作ったり、記事広告やYouTuberをうのみにしているのか。そのことは僕にもよくわかりません。